ここ最近法条ムラクは変わった、という噂が頻繁にロシウスでは話題に上っていた。とはいえ同じ第6小隊に所属するバネッサは「え、そうか?」などと首を傾げて前と何も変わっていないと主張する。かと思えばやはり同じ小隊に所属するミハエルは「いや、明らかに変わってきた」と神妙な顔つきで断言する。つまりのところ、意見は割れているのである。変わっていないと言う者もいれば変わったと言う者もいるのだ。 ではは、といえば、後者であった。ほんの些細な変化ではあるが、ムラクは変わってきている。本人に自覚があるのかは不明ではあるが。 「ムラク、どうかな?」 は屋上の柵に背を凭れさせ、ムラクに問いかけた。ムラクは神妙な顔持ちでレポート用紙を捲っていく。紫の手袋に隠れて実際の彼の指を見ることは出来ないが、用紙を捲る指の動作は優雅と言え、ああ綺麗だなとつい見とれてしまう。 「良く出来ている。特に問題はないだろう」 「そう。良かった」 まるで溜め込んでいた不安を体内から追い出すように息を吐き、胸を撫で下ろす。自分の仕上げたレポートの出来が悪いとは思っていない。だが、どうにも不安であり、だからこそ出来の善し悪しを判断してもらおうとこうして昼休みにそれをムラクに頼むことにしたのだ。 「しかし俺に頼まずとももっと他に適任者がいたんじゃないのか」 「えー、私はムラクが一番適任だと思うけどなあ」 本人はこうは言っているがムラクの成績は良好だ。アドバイスも的確で分かり易い。頼むならばムラク以外有り得ない。それに、とは思う。ムラクに頼むということは、ムラクとの時間が増えるということになる。前々からムラクに想いを寄せるとしてはますます適任者はムラク以外考えられない。現にこうしてムラクと二人きりになれている。なんて幸せな時間なのだろう。この幸せを噛みしめねばと思っていると、ぎい、という音と共にの幸せな時間は一瞬にして終わりを迎えた。 「あれっ、ムラク?」 二人きりであった空間に、一人の生徒がやって来たかと思えばそう声をかけてきた。先程までの高揚した気分が急激に下がっていく。ロシウス所属である二人とは違った紺色の制服。彼が誰なのか、声をかけられたムラクは勿論のこと、も知っていた。 (瀬名アラタ……) ジェノック所属のプレイヤー、瀬名アラタ。バイオレットデビルと称されるムラクの機体を傷付けるという至難の業をやってのけた人物であり、それだけならば凄い奴もいるものだと感心する程度だっただろう。しかし、はアラタのことを快く思っていなかった。ムラクが変わったと言われる原因は、アラタにあると言われているし、また、はそう思っていた。こいつのせいでムラクが変わったのだと思うと黒い感情がふつふつと心の奥底から湧き上ってくる。 「アラタ」 「奇遇だな、お前もここに来るなんて。それと、えーっと……?」 見知らぬ相手であるのことを目に留め、不思議そうな顔をしながらアラタはこちらへと近付いて来る。こちらは一方的に知っているのだが、こうして実際にアラタと顔を合わせるのも会話をするのも初めてのことだ。思わず口を噤んでいると、見かねたムラクが代わりに口を開いた。 「……。ロシウス所属のプレイヤーだ」 すまない、いつもはこんな調子じゃないんだが。そう言ってムラクが弁解するのが余計にを苛立たせる。だが残念ながらムラクもアラタもの苛立ちには気が付かないようだった。 「へえ、っていうのか。俺は瀬名アラタ。よろしく!」 そうしての気も知らぬアラタは人懐こい笑顔を浮かべ、手を差し出してきた。友好の証として握手を求めているのは明確であり、ここはアラタの手を握るべきなのであろうが、アラタと握手をする気になど到底なれはしない。そもそも敵国のプレイヤーと友好関係を築く必要性はどこにもない。しかもよりにもよってあの瀬名アラタとなんて、考えただけで吐き気がする。 「私、先に教室に戻ってるね。それじゃあ」 なるべくアラタの存在を視界に入れぬように目を逸らし、ムラクにそう告げるとレポートを彼の手から半ば無理矢理奪い取ってその場から足早に立ち去ることにした。屋上の扉を開ける際に背後からムラクが名前を呼んでいたが、それに気が付かなかったふりをした。あのままあの空間に居続けたら自分がどう爆発してもおかしくはないような気がしてならなかった。ムラクには悪いがあの場は立ち去る以外の選択肢が思いつかない。 そこでふと、ああそういえば、と足を止める。せっかくレポートを見てもらったのにムラクに礼を言っていない。きちんと言わなければ。礼のためだけにも一度戻るべきだろうかと悩み始めると、の横をするりとジェノックの生徒が通り過ぎた。その姿にはまたも見覚えがあった。アラタと同じ小隊のメンバーだ。事実、彼らはアラタが一人で先に屋上へと行ってしまった件の会話を繰り広げている。屋上へと向かう彼らの後姿を見送った後、は屋上とは別方向へと再度歩き始めた。ムラクに礼は言わなければならないが戻らずとも同じ仮想国でありクラスなのだからまた後でもできる。それに、わざわざ今のこの状況で屋上へと戻る気力は流石になかった。 ***** 放課後、はムラクとスワローに来ていた。屋上でのあの後、感謝の言葉とその礼に何か奢ると言って連れて来ることに成功した。今日はどちらの所属する隊もウォータイムでの出撃もなく、ムラクと二人きりなど嬉しいことなのだがの気分はまだ少し晴れない。ちょっとした瞬間に屋上での出来事を思い出し、苛々とした感情が込み上げてくる。 「機嫌が悪そうだな」 「そう、かな?」 デートと言っても過言ではないこの状況だというのにこれでは自分で雰囲気を壊しているようなものだ。ムラクは紅茶を片手に、こちらを観察するような目でを見つめてくる。の様子が気がかりらしい。駄目だこれではいけない。この状況を楽しまなければ。晴れない気分を追い出すためにかぶりを振り、いつもならば既に胃の中に入りなくなっている筈のチョコレートパフェに手をかけようとしたが、あっ、という素っ頓狂な声がそれを邪魔した。 「ムラクとじゃん」 最高な出来事と最悪な出来事が同時にこう何度もやってくるとは珍しい日もあるものである。出来ればもう二度と会いたくないと先程思ったばかりの人物が、二人の姿を見つけ、挙句に何の迷いもなくこちらへと歩み寄って来る。そんなアラタの後ろで彼の仲間たちが怪訝そうな顔をしているが気にも留めないらしい。再度、口を噤めばアラタは何やら困ったように眉をハの字に下げた。 「えーっと……俺、何かしたか? もし、したなら謝る。ごめん」 何故こいつが謝るのだろう。アラタが自身に対してしてきたことは何もない。それぐらい考えれば分かることではないか。なのに、何故謝る必要性があるというのか。不可解なこの状況に頭を悩ませていれば、屋上の時と同様、手を差し出された。まずは手を見つめ、それから視線を上へ上へと向かわせればアラタと視線が合い、かと思えばにこりと笑いかけられた。 「と仲良くなりたいんだ」 相手の喋っている言葉が自分に理解できない、異常なものに感じられた。それと同時に、まるで何かが自分の中で弾け飛んだかのような感覚があった。ついに抑えていたものが耐え切れずに爆発した。ふざけるな、という思いが浮かび上がりそれは消えずに心の中で膨張し続ける。 「っ、気安く話しかけてこないで!!」 気が付いた時にははそう叫び、アラタの手を叩き落としていた。辺りがしんと静まり返る。驚いた顔をしたアラタやその仲間、スワローにいた客や店員達、そしてムラクの顔が視界に入った。少しして我に返った時にはもう遅かった。言い逃れも何も出来ない。誰かが何かを言う前にここから逃げ出さねばと思った。こんなところにこれ以上はいられない。爆発した思いからなのか、それともいたたまれない羞恥心や罪悪感からなのか、震える身体に鞭を打ち、は荷物もそのままにスワローを飛び出し、駆け出した。屋上の時のように背後からムラクの声が聞こえた気がしたが、やはりあの時と同じように聞こえなかったふりをした。 そうして無我夢中に走り続け、呼吸も乱れ、疲れからようやく足を止めるとそこはかもめ公園のようだった。幸いにも以外には誰もいないらしい。へとへとになりながらもなんとかベンチまで歩き、倒れ込むようにベンチに座る。 「…………私、何やってるんだろう」 休息をとることで、頭が少しずつ冷静さを取り戻してきていた。あそこであんなことは言ってはいけなかった。何が、気安く話しかけてこないで、だろう。何様のつもりだ。なんて酷い。アラタには悪いことをした。それにムラクにも。こんなところにいないで戻らなければならない。そして、アラタに謝らなければ。だがそんな勇気をは持ち合わせてはいなかった。あの空気の中に再び突入せばならぬのだと考えるとたちまち気持ちが萎えてしまう。 (所詮はただの嫉妬のくせに偉そうなこと言った。瀬名アラタに勝手にむかついて八つ当たりしただけ。最低) 結局、自分はただアラタが羨ましいのだ。ムラクを変える、というあまりにも魅力的過ぎる行動。それをやってのけたアラタが羨ましくて、だからこそあんな言動をとった。いくら敵対勢力だからとはいえ、あそこまで邪険にする必要性などどこにもない。疲労と心苦しさから溜息を吐く。罪悪感がゆっくりと、しかし確実にの心を蝕み、苦しめていく。 「……まったく、まさかここまでお前の機嫌が悪いとはな」 唐突に後ろの方から聞こえてきた声に身体を強張らせる。早くベンチから立ち上がり、ここから去らなければと思うが身体が動かない。何でどうしてと内心慌てている間に、声の主であるムラクはベンチの前までやって来て、そのまま腰を下ろした。当然とムラクは二人で一つのベンチに座るかたちとなり、立ち去ることが出来ないため仕方なくちらりと横目でムラクを見つめる。しかしそれに気が付いたのか、ムラクがこちらを見てきたため慌てて目を逸らすことになった。 「どうかしたのか?」 「……何でもない」 「嘘をつくな」 だがそうは言われても、アラタに嫉妬していたんですなどと言える筈もない。言えばムラクに対して恋愛感情を抱いていることを自らバラすようなものだ。恋愛でなく仲間意識だと誤魔化すことは可能かもしれないが、それもそれで恥ずかしくて言えはしない。代わりの言い訳を考えようにも、どれを言ってもムラクが納得してくれるとは到底思えなかった。そうするとに出来ることはただ沈黙することのみであった。黙し、居心地の悪さに耐える。それしか出来ない。ムラクはムラクでの言葉を待っているのか口を閉ざしている。暫くそうした状態が続いていると、待つのは止めたのかムラクが口を開いた。 「悪いとは、思っているのか」 「……思ってる」 「謝る気はあるのか」 「…………一応は」 悪いのは確実に自分の方であることは理解しているのだ。けれども、戻って謝る勇気が出ないから、戻れずにいる。ムラクは今度はベンチから立ち上がり、アラタがそうしてきたようにに手を差し出してきた。 「なら、行くぞ」 行くぞというのはスワローの、つまりはアラタのところだろう。手を差し出しているのはが戻れない理由を理解しているからなのか、はたまた逃げ出さないようにするためか。どちらにせよ、何故、という疑問がの中に湧き上がる。 「何でムラクまで」 「一人で行くよりましだろう」 何がましなのかと思ったが、きっと心配してくれているのだ。にもアラタにも。どちらも心配し、取り持とうとしてくれている。そう思うと途端に罪悪感が一層増した。アラタにもムラクにも酷いことをしたという思いに押し潰されそうになる。 「なんか、ごめん」 「謝らなくていい。それよりもアラタに謝りに行くぞ。それと機嫌を直せ」 「いや、直せって言われてもさ……」 アラタへの嫉妬心はかなり落ち着いたが、代わりに罪悪感がその倍ともいえる大きさでのしかかってきてそう簡単に直せるとは思えない。うじうじとしていれば、珍しくムラクが少しだけ困ったような顔をした。 「そういう顔はらしくない。見ていて不安になる」 さっきパフェを食べている時もいつもなら幸せそうな顔をするだろう。俺はそういうお前の顔を見ていたいんだ。 その言葉で、身体中の熱という熱が顔に集まってくるかのようだった。いや、実際にそうなのかもしれない。ムラクにとっては大したことはない言葉なのかもしれないが、からしてみればこれ以上にない破壊力を持った言葉だった。 (……私、今なら瀬名アラタに上機嫌で謝れる気がする) あまりのことに呆然としていれば、いつまで経っても差し出された手を取らないのに痺れを切らしたのかムラクはの手を取りベンチから立たせた。そして、顔を赤くし心ここにあらずといったの様子に気付き、やはりまた珍しく微かに笑みを浮かべた。それにより我に返るどころか、の心は更にここではないどこかへと飛んでいく。顔に集まった熱は全身へと広がり、どうやらスワローへ戻るにはまだ時間がかかりそうだった。 ハッピーエンドに転がり落ちる title : 寡黙 |