甘ったるいにおいが学園に満ちている。
女の子は色気のある顔をして、男の子は期待に満ちた顔をして。
ああ、彼も他の子たちと同じ顔をしているのだろうな。
彼女から、たったひとつの、愛のかたちを貰いたくて心を弾ませているんだ。 「もーっ、ってば聞いてるの?」 「え? ああ、うん、聞いてる聞いてる」 声をかけられて現実に引き戻された。 ショーコが少し怒った顔をして私を見つめている。 こんな顔すらこの子は可愛らしい。羨ましいものだ。 そんなショーコを更に怒らせてみるのも面白いけど、 意地悪をするのも可哀想なので適当に相槌を打っておく。 勿論、本当はこれっぽっちも聞いてはいなかった。 確か、何かと何かを組み合わせるとおいしい、という旨を言っていた気がする。 「ならいいけど……あ、でねっ、チョコレートに本当におすすめなの!だから絶対にも試してみて!!」 そうかひとつはチョコレートだったか。ぼんやりと記憶が蘇ってくる。 しかしチョコレートと何を組み合わせるのかまでは思い出せない。 ショーコのことだからきっと何かとんでもない組み合わせなのだろうが。 そしてそれが意外にもいける組み合わせなのは間違いない。 「分かった、今度試してみる」 そう言えばショーコは満面の笑みでうんうんと頷き、その横にいたマリエは小さく溜息を吐いた。 マリエには私が話を聞いていなかったことが分かっているのだろう。 そうだ、きっとマリエはショーコの話をちゃんと聞いていただろうから後でどんな組み合わせだったか聞いておこう。 すると言った以上は試さないと。 「ところでショーコ、チョコ配りに行かなくていいの?」 「え?」 「その量を今日中に皆に配るのは結構ぎりぎりだって言ってなかった?」 今日は2月14日。バレンタインデー。 ショーコは親しい友人たちにチョコを配ると言って用意したはいいのだが、その量が半端ではない。 両手にいっぱいの紙袋を抱え、それですらまだ一部にすぎないという。 交友関係が広いショーコなのだから当然と言えば当然と言える量ではある。 でもこの量を今日中に配ろうと思うとかなりの時間がかかることになる。 そのため、今日はチョコを片手、いや両手に走り回らないといけないと言っていたのだが今マリエに言われるまで頭からそのことが抜け落ちていたらしい。 「わ、忘れてた!二人ともごめん、皆に配って来るからまたあとで!!」 ばたばたとチョコを抱えてショーコは走り去って行く。 その苦笑しつつ、マリエとともに手を振って見送る。 あの様子では廊下を走るなと配っている間に先生に注意されるに違いない。 「は、チョコ渡しに行かないの?」 「私、皆の用意するの忘れちゃったんだよね」 「そうじゃなくって、」 すぐにマリエの言いたいことを理解した。 私の鞄に入っているもののことをマリエは知っている。 「一応、渡しに行くつもりだよ」 「じゃあ、もしかして、告白するつもりとか?」 告白、か。そんなものができたら私も気が楽になるんだけどな。 けれど、私にはそんなことはできない。 それをしてしまったら今、自分を偽ってまで守っているものはすべてなくなってしまう。 「本命と義理ってさ、便利だよね。例え本命でもそうだと言わなければ相手にとっては義理になる。勿論その逆も」 私の言葉で、マリエは察したようだった。 そっか、とどこか悲しそうなそれでいて安心したような声で呟く。 私の隠していることを何もかも知っているマリエには、このことで随分と気を遣わせてしまっている。 「そういえば、あいつがどこにいるか知ってる?」 「ううん」 「図書室。委員会の子に仕事を押し付けられてるの見かけた」 「……そう。ありがとう、教えてくれて」 きっと頼まれて断れなかったのだろう。彼らしい。安易にその姿が想像できる。 ありがとう、とマリエに礼を言い図書室に行こうと足を一歩踏み出せば、制服の裾を掴まれた。 犯人はマリエである。どうしたのだろうかと思っていると、 私の制服を掴んでいない方の手を目の前に差し出された。 「私の分は?」 「あー……ごめん、さっき言った通りなの」 あまりにも本命のことで頭がいっぱいだったせいで、義理だけでなく、友人たちの分も作り忘れてしまったのだ。 友人たちには申し訳ない。彼女たちは私にくれるのに私はあげることが出来ない。 するとマリエは不機嫌そうに制服を放した。そうして、再度溜息を吐く。 「……じゃあ、ちゃんとあいつに渡して来なよ。そうしたら許してあげるから」 「うん。分かった、行ってくる。本当にごめんね」 もう一度謝れば、不機嫌そうな顔を和らげてくれた。 マリエにはホワイトデーにたくさんお返しをしよう。それがいい。 そう思いながら私は今度こそ図書室へと歩き出した。 ****** 図書室へと辿り着き、ゆっくりと扉を開け、中の様子を観察する。 運良くというべきか図書室内には殆ど人がいない。 勉強や読書のために数える程度の生徒がいるぐらいだ。 では目的の人物はどこにいるのだろうかと探せば、すぐに見つかった。 大量の本を抱え、それらを元あるべき場所へと戻している。 本が重いのかふらふらしている姿がなんとも間抜けで、また、愛らしいと思えた。 男に対して愛らしいという表現は相応しくないし 本人に言えば怒られるのだろうが、線の細い身体をしているのだから愛らしく見えてしまう。 だが本を戻す手は男の子らしい手だ。女の子のそれとは違う。 「ハールトっ」 彼に近付き、努めて明るく声をかければ、数度目を瞬かせた後、、と存外落ち着いた顔で名前を呟かれた。 もっと驚いた顔をするかと思っていたのだがそうでもないあたり、 私が来ることをある程度予想していたのかもしれない。 「まったく、何で図書委員じゃないハルトがそんなことしてるわけ?」 「その、図書委員の子に頼まれて」 困ったようにハルトは笑う。そうは言うが、図書委員は二人いる筈だ。 なのに見る限りハルト以外の生徒はただの図書室利用者だ。つまりは図書委員はハルト一人だけ。 二人ともいないというのは少しおかしいのではないだろうか。 それに、今日はバレンタインだ。 どうせバレンタインにうつつをぬかしているに決まっている。 頼まれたと言うよりは押し付けられたというのが正しいだろう。 「ああもう、このお人好し!そんなの断ればいいのに!!」 「あはは……でも、僕がお人好しならもお人好しだよね」 「何で」 「だって、手伝ってくれるんだろ?」 思わず言葉に詰まる。 ハルトのもとへとやって来たのは、手伝いをするためではない。 とはいえ仕事を押し付けられたハルトを見てただ頑張れと言うだけのつもりはない。 半分当たり。半分外れと言ったところか。 「……仕方ないなあ、このちゃんが手伝ってあげよう」 「ありがとう。が手伝ってくれれば、早めに終われそうだ」 今度は嬉しそうに笑う。綺麗な笑顔。心の底からの笑顔。 時縞ハルトという人間をよく表す笑顔。ハルトは本当に美しい人間だ。 しかしそれが、ほんの少しだけ腹立たしさを覚えさせた。 「なんといっても今日はバレンタインだもん、愛しのあの子からチョコを貰うためにも余計に早く終わらせたいよねえ」 「ちょ、ちょっと、っ!!」 ハルトは、ハルトが好きな子と同じだ。きらきらしていて、とてもよくお似合いなのだ。 私なんかが入る隙間なんてないくらいに。 いくら想ったところで私の想いなんてこれっぽっちも届きやしない。 私のたった一言でこれだけハルトは顔を赤くさせて、焦って、あの子の、 ショーコのことを想っている。私のことなんて想ってくれないくせに。 「あっ、そうだ。ねえ、ハルト。私も、チョコをあげる」 まるでふと思い出したかのように私は鞄からチョコの包みを取り出し、ハルトの抱えている本の山の頂点へ置く。 私の目的は最初からハルトにチョコを渡すことであり、本来はこう渡すべきではないのだろう。 だが私にはこう渡すしかない。想いは二人のためにも口にしてはならない。 「……ありがとう、嬉しいよ」 嬉しいという気持ちに嘘偽りはきっとない。 なのに、甘いのにワントーンどこか低い声。笑顔なのに困惑が含まれた顔。 これがハルトの私への想いを全てを物語っていた。 ハルトは、私のあげたものが本命か義理かを知っている。 それでもあえて口にしない。 口にしてしまえば私が傷つくのを分かっている。私たちの関係が壊れてしまうのを分かっている。 だから何も知らないふりをしている。 (でもね、知っているのはハルトだけじゃないんだよ) ハルトが私の気持ちに気付いているように、私もハルトが気付いているのに気付いている。 けれどそれを口にしてしまえば、私は私の隠してきたものの意味をなくす。 ハルトが今傷つかぬようにとついている嘘を暴くことになる。 「ハルトにそう言ってもらえると、私も嬉しい」 だからこそ、私も嘘であり嘘ではない言葉を口にしなければならない。 ハルトの笑顔が眩しく映る。美しい。やはりハルトらしい笑顔だ。 しかしこの笑顔が囁いてくる。君には応えられないよと。 なんて誰よりも優しくて残酷な人なのだろう。 いつまでもこれでは、私もハルトも楽になんてなれはしないのだ。 暗愁たる傾倒 title : 寡黙 |